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09話 【恋ふらし】


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09話 (歴) 【恋ふらし】―コウラシ―


珍しく柾さんと昼休憩の時間が重なったようだ。休憩バッジを付けた柾さんを見た私の声が、思わず弾む。
「あっ! 柾さ……」
今から休憩なんて奇遇ですね、と続くはずだった言葉は、柾さんに駆け寄る女性社員の姿によって霧散する。
「ごめんね、柾。待った?」
「いや」
「じゃあ行きましょうか」
その女性は人目もはばからず柾さんに密着しながら従業員出入口へと向かった。
2人の後姿を見送る形となった従業員たちが、静かな声で囁き合う。
「柾さんと一緒に出て行ったのって、三木さんじゃない? あの2人付き合ってたの?」
「え、まだでしょ? 確かにあの子、入社以来ずっと柾さんに片想いしてたけど」
「柾さん離婚調停中って話だし、フリーになるのを見越して本格的に落としに掛かったのかも」
その現場を目撃して、私の足は竦んだ。
知ってる。分かってる。それは仕方のないこと。それでも拒絶してる。
(柾さんが女性と並んでいる姿なんて、見たくない)
柾さんが誰と食事を共にしているかなんて気にも留めていなかったのに、なぜだろう。
今では彼の行動が逐一気になって仕方がない。突如湧き上がったもやもやとした感情に戸惑う。
(彼との1時間を独り占めしている三木さんが羨ましい)
接点も少ないうえに、声すら掛けられない臆病者。それが私。
対して彼女は己の心に忠実だ。現に、いとも簡単に柾さんを連れ出してしまった。
(私と柾さんの仲なんて、高が知れている。上司と部下。しかも直属ですらない。はぁ)
思わず口から零れる、小さな溜息。
素直に認めてしまえばなんてことはない、これは恋慕なのだろう。
まさか自分の中で、柾さんへの想いがこんなにも膨らんでいたなんて……。
(厄介な感情に気付いてしまったかも……)
出来るものなら蓋をして、気付かなかった振りをしたい。
嫉妬に一喜一憂。恋心には、それら醜い感情がつきものだと、かの先人たちは言う。
綺麗ごとだけでは済まされないのが恋なのだと。
だからこそ、胸の奥から生じてしまったこの感情が恋でないことを願わずにはいられなかった。
そうすれば楽なままでいられるし、醜い感情によって雁字搦めになる自分を見なくて済むから。

***

2階の社員食堂で昼食を終えた私は、空の弁当箱を置きに、3階の更衣室へと向かうため階段を上りかけていた。
誰かが昇り降りするたびに靴やヒールの音が響くような、年季の入った鉄骨階段だ。
その時も、私とは別の足音がして、誰だろうと顔をあげたのだった。下りてくるのはスポーツ売場担当の間宮さんだった。
ふんわりした雰囲気が特徴の女性社員だ。どちらともなく会釈をする。間宮さんは微笑しながら下りて行った。
再び頭上から足音が聴こえ、視線が無意識にそちらを向く。
(このひと、さっき……)
柾さんと一緒に昼休憩に出掛けた女性だった。すれ違いざま見やった名札には、≪三木≫とあった。
清潔感があり、初対面の人物に好印象を抱かせる魅力があるにも関わらず、なぜかその顔はひどく歪んでいた。
まるで憎くてかなわない相手を、いまにも呪い殺してしまうかのような――。
その異様な雰囲気が気になった私は、三木さんから目を逸らせずにいた。階段を上るのをやめ、しばし様子を窺う。
三木さんはすれ違う私のことなど眼中にないようで、素早く下りてゆく。
すぐ間宮さんの後ろに追い付いた三木さんは、スッと両手を伸ばした。
(えっ、何を――?)
不審に思ったのと同時に、短い悲鳴をあげた間宮さんが上半身のバランスを崩して足を滑らせた。
上半身から落下していく。私は咄嗟に踊り場まで駆け下りた。
落ちた瞬間に胸を打ったのか、間宮さんは危うい呼吸の仕方をしていた。うぅぅと苦しげに呻いている。
「間宮さん、大丈夫ですか!? み、三木さん! どうしてこんなこと……!」
私が視線を向けると、三木さんはビクッと身体を揺らした。
そこに憎しみの表情はなく、それどころか真っ青になっていた。
「ち、違う! 私じゃない! こんなつもりじゃなかったの。わ、私、こんなはずじゃ……」
震える声で何度もそう訴え続けた三木さんは、次の瞬間早口で哀願しだした。
「お願い! このことは誰にも言わないでっ」
「えっ?」
私が返答に窮していると、三木さんは踵を返し、ヒールを鳴らしながら走り去ってしまった。
唖然としたものの、いまは間宮さんを優先すべき時分だったことを思い出す。
ありがたいことに間宮さんは目を開け、私に焦点を合わせてきた。
「……千早ちゃん?」
良かった! かすかな声だったけれど、確かに私の名前を呼んでくれた。
「間宮さん、この指、何本に見えますか?」
左手でピースサインを作ると、間宮さんの目の前に持っていく。
「2本」
「ちゃんと見えてますね。起きられますか?」
「えぇ、大丈夫……。う、いたぁっ……」
激痛が走ったのか、顔を歪める間宮さん。
「救急車呼びますか?」
「そんなオーバーな……。平気よ。でも、薬局に行きたいな……」
そうか、あそこなら医学知識がある薬剤師がいる。
間宮さんは自分一人で歩けると思っていたようだけれど、それは土台むりな話だった。
するとタイミングよく、ひとが通ってくれた。
「千早さん、どうしたの?」
「間宮さんが階段から落ちてしまって。薬局に連絡して貰えませんか? 診て頂きたいんです」
「えっ、間宮さん大丈夫!? 分かったわ、そこで待ってて!」
「助かります」
「……あ……介抱してくれてありがとうね、千早ちゃん。でもどうして私、階段から……?」
(両手で押されたのに気付いていない……? そんなことって……)
落下してからの間宮さんは、空気を求めて必死にもがいていた。私と三木さんのやり取りを知らなくて当たり前だ。
そもそもあの場所に三木さんがいたこと自体、間宮さんは気付いていないのだろう。
とはいえ、両手で背中を押されたのだから、その感触は生々しく残っているはずなのに。
「何か覚えていませんか?」
「ん……? えっと、『あー今日も可愛いなー千早ちゃん』って思いながらすれ違って……。
そのあとは、発注しなきゃいけない商品のこと考えてて、気付いたら足を踏み外して落下、みたいな」
「じゃあ……ご自分のミスで……?」
「んん、そそっかしいね、私。ごめんね千早ちゃん、付き合わせてしまって」
「いえ、私は全然大丈夫ですけど……」
(落ちたショックで記憶が混乱しているのだろうか)
結局間宮さんはすぐ病院で検査を受けに行ったようで、幸いにも骨に異常はなかったという。
とはいえ打ち身によってできた幾つかの青痣のほうは、日にちとの闘いになるとのことだった。

***

大幅に勤務開始時間を過ぎていたのでPOSルームに戻らざるを得なかったのだが、こんな靄がかった状態でどうして仕事が出来よう。 
溜め息をついてキーボードから手を離す。驚いたことに、いつも難航する仕事がいつの間にか終わっていた。
無意識の内の勝利だけど、ちっとも嬉しくない。それどころか、くだんの事件の目撃者が私だけという事実に不安を感じ始めていた。
ふと、頭に何かが触れた。手だ。柾さんが背後に居るサインだと気付くのに、少しの時間を要した。
「こんにちは」
振り返りたいけれど、赤く染まった頬を見せることになってしまう。仕方なく、そのまま頭に手を乗せられたままでいる。
苦笑してその場を誤魔化した。『もう、困った人ですね』というニュアンスが伝わってくれればそれでいい。
「はい。こんにちは、柾さん」
「熱心だな。もっと手を抜けば?」
思った以上に近いところから声がした。どきどきと鼓動がうるさい。
「そんなわけには……。期限も迫ってきてますし」
「ん、偉い」
今度は優しく頭を撫でられ、早急にやめて貰わないと、心臓がどうにかなってしまいそうだ。
「柾さん、あの……」
「ん?」
「三木さんが……」
(言っては駄目。その件に関しては、まだ何も分かっていないじゃない)
でも……。三木さんが柾さんに身体を寄せていた場面を思い出した瞬間、胸がズキンと痛んだ。
「三木がどうした?」
私の口から出てきたのが意外な人物の名前で驚いたのか、柾さんは私の顔を覗き込んできた。
不意打ちを食らった私は、慌てて誤魔化す。
「あ……仲が良いんですね、三木さんと。知りませんでした」
「あぁ。昔、別の店舗で一緒だった時期があってね。腐れ縁だよ」
「三木さんって美人ですよね。髪も綺麗ですし、いい香りがするし、それにえぇと……」
「そんなことはない。キミの方が、よっぽど綺麗だ」
今度は隠しようがなかった。茹でダコのように真っ赤になった顔を、思いきり曝け出してしまった。
柾さんは私が欲しい言葉を、欲しいタイミングでくれる。だから苦しくて困る。
どこまで本気なんだろう? 嬉しいだけに、怖くなる。
「そ……うですか? ありがとう……ございます」
三木さんより優位に立っていたい。そう思ってしまうのは、罪なことなのだろうか……。
柾さんが部屋から出て行ったすぐ後。入れ違いに年配の女性清掃員がPOSルームを訪れた。
「階段の踊り場に指輪が落ちてたよ。さっき階段から落ちた社員がいたんだって? その子のじゃないかねぇ」
お礼を言って、受け取る。ブルガリに似た、太い環が特徴的な指輪の内側には、「N.M」のイニシャルが刻まれていた。
間宮さんの名前は七朝。間宮さんの指輪だろうか。私は明日にでも間宮さんに聞いてみようと思った。

***

翌朝、仕事がひと段落した時間を見計らって、私は内線電話で間宮さんを電話口に呼びだした。
怪我の程度によっては休みかもしれないという読みは外れ、気丈にも間宮さんは出勤していた。
「POSの千早です。お身体は大丈夫ですか? どうか無茶しないで下さいね」
「ん、少し痛むだけだから全然問題ないよ。ありがとうね」
「あの、間宮さん。階段で指輪を落としませんでしたか?」
受話器伝いに、息を飲む音が聴こえてきた。
「そう、そうなの。昨夜指輪がなくなったことに気付いて、私……」
「あ、大丈夫ですよ。清掃員の方が見付けて下さって、今は私が預かってます。やっぱり間宮さんのだったんですね」
「本当に!? それを聞いて安心したわ! あ、13時に休憩を取るから、それまで預かってて貰えるかな?」
「もちろんです。POSルームで待ってますね」
受話器を戻した、その時だった。
背後からぬっと手が伸びて来て、私の右手首を強く握り締めた。振り返ると三木さんが立っていた。
向こうはそれなりの覚悟を決めたのか、怖気付いた様子は見受けられない。
昨日『黙っていて』と懇願したときの青ざめた痕跡を微塵も感じさせない、挑むような目だった。
「指輪を見せなさい!」
「だっ、駄目です! これは間宮さんの物で……!」
「あなた、それが誰のものか知っているの!?」
ものすごい剣幕だ。美人が怒ると迫力があるとは聞いたことがあるけれど、本当だった。
「ま、間宮さんのものです!」
「あなた、的外れもいい加減にしなさいよ!? それのどこが間宮のものだって言うの!?」
「だってN.Mって彫ってあるじゃないですか。Nanasa-Mamiyaでしょう?」
「ふざけないで。それは正真正銘、私の物よ! 三木奈和子(Nawako-Miki)。N.Mよ!」
「そんな……」
「自分の名前なんか偽らないわよ。好きなだけ社員証を見なさいな!」
突き付けられたそれを見る。割り振られた社員番号、貼られた顔写真。
偽造を許さないセキュリティカードには、確かに『ミキ ナワコ』と書かれていた。
「でも……でも! イニシャルが同じというだけでは信じられません。何か物証がないと……」
(間宮さんのものを渡すわけにいかない。この指輪は私が守らなければ)
私の正義感が、必死に言い訳を探す。
「三木さんにお渡しするわけにはいかないんです」
指輪を両手で庇いながら、三木さんの手から逃れる。
(でも、なぜ三木さんは指輪に彫られたイニシャルがN.Mだってことを知っているの……?)
本当に三木さんのものかもしれない可能性もある。
私は恐る恐る彼女を見返した。持久戦を覚悟した顔に、思わず生唾を飲み込んだ。
「そうね、悔しいけど証明出来るものはないわ。でもそれは間違いなく私のものよ。私が柾から貰ったものですもの」
「!」
「私は柾と付き合ってるの。だからその持ち主を証明してくれるのは柾本人よ」
「それが真実だとして、なぜ間宮さんが持っていたんです?」
「あの泥棒猫の間宮が奪ったのよ!」
指輪を握りしめた私の右手を凝視しながら、三木さんは悔しそうに歯軋りをした。
「事情がありそうですね。……どうぞ、掛けてください」
私は三木さんに椅子を勧めた。
三木さんは少しの間、私を睨み続けていた。彼女の心の内に、葛藤めいたものがあるのかも知れない。
やがて不承不承とばかりに椅子に座った。腕を組み、足を組む。プイと横を向いた三木さんは、拗ねた子供のようだった。
「階段から突き落とそうとしたのは認めるわ。……自分でもどうかしてたと思う。我慢ならなかったのね」
時間が経過したことで冷静さを取り戻したのか、三木さんは客観的な話し方をした。
そういえばあのとき、三木さんは己の過ちを受け入れなかった。
『嘘』と呟いたり、『こんなつもりじゃなかったの』とおののいていたのは、突発的な衝動だったからだろうか。
そんなことを考えていると、
「でも、私は押してなんかない! 私が押そうとした瞬間、間宮が自分から落ちたのよ!」
かぶりを振って全否定した。まさに根底から覆す内容の告白に、私は二の句が告げずにいた。
「ほ、ほんとよ! 神にだって……、そう! ご先祖様にだって誓えるわ!」
さすがにご先祖様まで持ちだされてしまっては信じないわけにもいかず、私は渋々頷いた。
「わ、分かりました。よければ順番に話して頂けませんか?」
私が頭ごなしに否定しなかったことに安堵したのか、三木さんは少しだけ表情を和らげ、素直に話してくれた。
「私と柾は同期でね、初年度だけ同じ店舗にいたの。柾を好きになるのに時間はかからなかった。
でも当時は告白する勇気がなくて。……お互い、異動もしてしまったし。
そうこうしてる間に、風の便りで柾が結婚したという話を聞いてね。もう私、ショックでショックで……。
さらに追い打ちをかけるかのように、妹の佐和子が『柾さんと不倫をしてる』なんて言い出すから」
「え……え!?」
「横からかすめ取られてハイソウデスカって諦め切れるわけないじゃない。妹には再三別れるよう説得し続けたわ。
その甲斐あってか妹も柾とは別れて、しかも奥さんともけじめをつけてくれた。
驚いたことに柾はね、女性関係を全部清算したというの。それもこれも、私との未来を考えてくれてるからだわ」
(ちょ、ちょっと待って。追い付かないわ)
柾さんが女性関係を全部清算――?
(不倫? 浮気? それほどまでに、ただれていたというの……!?)
三木さんの告白は、私にとって、二重にも三重にもショックを与えるものだった。
(そんな話、いま初めて聞いて……。私……私……)
かといって落ち込んでいる時間をくれないのが三木さんだった。
(確かに説明を促したのは私だけれど! でもいまは精神的に待って欲しい)
心の整理を処理しきれないままでいる私に対し、三木さんは語ることで自分を取り戻しているかのようだった。
「柾がこの店に異動してきたのはいつだったかしら。1年前ぐらい? 私と間宮は半年前にここに来たの」
髪を後ろに薙ぎ払い、三木さんは足を組み替えた。
「その指輪を貰ったのは3ヶ月前よ。柾の部屋に遊びに行ったとき、本棚に置いてあったのを見付けたの。
ラッピングされた小箱に入っててね、明らかにプレゼント用だったから、これはなに? って柾に尋ねたの。
そしたら珍しく血相を変えて、『見るな、触るな!』ってむきになっちゃって。あんな柾、見たことない。
でも中を見れば有名ブランドの指輪だし、しかも私のイニシャルが彫ってあるじゃない? とても嬉しかったわ」
そのやり取りを思い出したのか、三木さんはうっとりしている。
けれどそれも一瞬のことだった。再び憎々しげな表情へと変貌した。
「ところがよ。先月ロッカーで着替えをしていた時だったわ。たまたま間宮と同じ出勤時間だったの。
うっかり指輪を落としてしまって、その時にあいつ、ひとの指輪を奪ったのよ!」
「奪った? 間宮さんの言い分はなんて?」
「指輪を拾うなり、イニシャルの存在に気付いた間宮は、柾が自分に贈ったものだって周囲に言い触らしたの」
「そんなことをしたって、間宮さんは虚しくなるだけなんじゃ……」
「同感よ。私も到底耐えられないわ。よその女がつけていたものなんて、そもそも視界にすら入れたくないわよ。
でも間宮にとっては違うみたいよ? 彼女の目的は『刻印』の方。自分こそ柾の女だって思わせたかったんでしょうね」
「そんな……」
「それなのに皆、なぜか間宮の言うことを信じてしまってるの。
しまいには、私が返してって言うたびに『三木さん、僻まないの』って笑われる始末よ。ほんと、腹が立つ!」
「三木さんの主張は分かりました」
「! ……信じてないわね?」
三木さんは、今まで以上に私を睨みつける。でも、ここで怯むわけにはいかなかった。
「鵜呑みにしたくないだけです。一方から話を聞いただけで判断するのは不公平だと思うんです」
三木さんはしばらく無言のままだった。顎に手を当て、何かを思案しているようだ。やがて、静かに呟いた。「良いわ」
「え?」
「間宮とは決着を付けておきたいし。これも何かの縁なんでしょうね。じゃあ、あなたに1つお願いしようかしら」
「何をですか?」
思わず身構えた私に、三木さんはこう告げた。
「間宮が来たら指輪を渡してあげて」
「それだけ……ですか?」
「えぇ。今度は間宮の主張とやらを、思う存分聞けばいいわ」
「そう――ですね」
これだけ関わっておいて自分だけ輪に入らないのでは筋が通らないだろう。私は頷いた。
三木さんは、清々したとばかりに長い髪を手ですくうと後ろへ薙ぎ払いながら言った。
「あなたに1つ教えておいてあげるわ。好きな人を自分のものにする為に手段を選ばない人間って、意外と多いのよ」
三木さんは艶やかに微笑むと、スパイシーな香りを残して部屋から出て行った。
再びひとりになった部屋に、指輪が照明の光を受けて反射する。それは煌びやかなミラーボールを彷彿させた。
(――これは紛れもなく貴方です、柾さん。その周りを三木さんや間宮さんが公転してる。貴方という太陽を中心に)
そして私も例外ではない。
(いつの間にか、私も貴方の周りを回っていたみたいです)

***

少し前なら考えられなかった。
人間関係が様変わりしていく過程を目の当たりにすることや、自分が当事者になるなんて。
自分の人生は平穏の中にこそ存在すると思っていたし、平凡こそ私の在るべき姿だと信じていた。
それなのに、なぜ私は渦中にいるのだろう?
分からない。分からないけれど……。
取り敢えず今は、間宮さんと向き合ったりしている。

「千早ちゃん、ごめんなさいね」
内線でのやり取り通り、間宮さんはそのベビーフェイスに笑みを湛えながらPOSルームを訪れた。指輪を受け取るために。
「この指輪のイニシャルって間宮さんのことですよね? 恋人からのプレゼントですか?」
「えぇ、そう。恋人の……柾さんからのプレゼントなの」
「……羨ましいです」
間宮さんの言葉がもし本当なら、心の底からそう思っただろう言葉を呟く。
「じゃあ、大切にしないとですね」
言いながら、指輪を返すために差し出した。
指輪を摘まもうとした間宮さんの指が、寸でのところでぴたりと止まった。
「間宮さん?」
「み、三木……!」
彼女の視線の先を辿ると、POSルームの前の通路を三木さんと柾さんが通過するところだった。
唇を噛む間宮さんは、いままでとは打って変わった形相になり、まるで般若のようだ。
三木さんが立ち止まる。つられて柾さんの足も。2人して、こちらを見ている。
三木さんの口が動いた。はっきり『う・そ・つ・き!』と。
読み取った間宮さんは青ざめ、身体を震わせる。そして深く傷付いてもいた。
迂闊だった。まさか、柾さんの目の前で因縁の指輪を渡すはめになるなんて。
三木さんの言葉が鮮やかに蘇る。
『愛する人を自分のものにする為に、手段を選ばない人間って、意外と多いのよ』。
(これが、三木さんの仕組んだシナリオ……)
いまや汚らわしいものを見るかのように、間宮さんは私の掌にある指輪を睨んでいる。
「ほ、ほんとはね、柾さんとはもう別れてるの。だから、その指輪はいらないんだぁ」
むりやり笑顔を張り付けながら、受け取るのを拒んだのだった。
「千早ちゃんから柾さんに返しておいてくれないかなぁ? 私、もう柾さんとは会いたくないっていうか……」
「……分かりました。それが間宮さんの望みなら」
「……ん。千早ちゃん、ありがと」
覇気のない笑顔を見ているのがつらかった。
間宮さんは「じゃあね」とだけ残して、小走りにPOSルームから出て行った。
通路に2人の姿は既にない。やれやれ、と深い溜息がついて出た。
なぜ今まで間宮さんは、バレバレの嘘を言い触らし続けたのだろう?
そのメッキがいとも容易く剥がれ落ちることなど明白なのに。
(見栄だろうか。ううん、もういい。考えても仕方がない。ひとの心なんて……)
――誰にも分からない。
私は手元に残った指輪を、そっとスカートの中に収めた。

***

三木さんと柾さんは社員食堂にいた。柾さんは自動販売機で飲み物を買っているようで、席を外していたけれど。
私は取り返した指輪を『自称持ち主』に差し出す。
「間宮さんは、いらないそうです」
「でしょうね」
実に素っ気なく言いつつ、三木さんは指輪を受け取った。
柾さんが二つのカップを持ちながら帰ってきた。三木さんは柾さんにその指輪を見せる。
「柾、ほらこれ。やっと間宮から取り返したの!」
その指輪を見た柾さんは、じっと黙っていた。懐かしいものを見るように。
そして次の瞬間、彼は驚くべき言葉を紡いだ。
「ありがとう。僕の指輪を取り返してくれて」
(僕の指輪? 三木さんにあげたものじゃなかったの!?)
「ま……柾? 何を言ってるの? これは貴方が私にくれたものじゃない!」
「僕がキミに? はて、どこで記憶がねじれてしまったのかな。キミに指輪を贈ったことなど一度もないが」
「柾!」
信じられないとばかりに三木さんは瞠目し、取り乱す。
三木さんが荒げた声によって、こちらをちらちらと盗み見る人数が増えていく。
「これは僕の指輪だ。N.M。……柾直近(Naochika-Masaki)」
またしてもN.Mのイニシャル……。もはや真実云々の騒ぎではない。修羅場だ。
「ど、どういうことよ……」
「キミは勘違いをしている。この指輪は本当に僕のものなんだ」
三木さんに真実を話したくないのか、柾さんは言い辛そうだった。
「これは昔、キミの妹の佐和子が、僕の誕生日に贈ってくれたものだ」
「!!」
「だから僕のイニシャルが彫ってある。……キミは勘違いして、自分に贈られたものだと思ったようだが」
「そ、そんな……」
「本当のことを今までずっと言えずにいたのは、キミを傷付けたくなかったからだ。……すまない」
「傷付けたくなかった!? もう既に十分傷付いてるわ! 黙っているのが優しさだと思ったら大間違いよ!
指輪を通じて妹の気持ちも厄介払い出来たし? さぞかし清々したことでしょうね! 貴方は鬼よ! 最低だわ!」
「この件で佐和子を持ちだすのはやめてくれ。不愉快だ」
「妹の贈りものをひとに譲っておいて、どの口がそれを言うの!? 私こそ不愉快だわ!」
「キミこそ、知りもしないくせに」
「は?」
「キミが、僕と佐和子のなにを知ってると言うんだ?」
「ま、柾さん! 三木さんも、どうか落ち着いて――」
「千早さんは黙っててちょうだい!」
「皆が見てます。ね、三木さん。お願いですから」
「うるさいっ」
パン、と渇いた音がした。叩かれた頬に手をやると、じんじんと疼く痛みが少しだけ緩和するような気がした。
「千早!」
柾さんが「大丈夫か?」と顔を覗きこんでくる。私は「はい」と頷いた。
「最低なのはどっちだ?」
私をかばうように背後に回し、柾さんは三木さんと対峙する。
しばらくの間、柾さんを睨みつけたまま無言でいた三木さんだったけれど、やがて踵を返して食堂から出て行った。
周囲が『恋も命懸けだな』と囁き合っていたのも束の間、ドアが乱暴に放たれ、再び三木さんが入って来た。
辺りがしんと静まりかえる中、入り口付近で食事中だった店長に向かって、白い封筒を差し出した。
「転属願です。受理していただけないなら、辞職願を提出します」

***

三木さんは一方的に転属願を渡すと、店長のことばも聞かないうちに出て行ってしまった。
突然起きた非日常的なできごとに、どよめき冷めやらぬ社員食堂。
いつもよりがやがやと騒がしく、周囲の視線はときおり柾さんに向かっている。
(しばらくはこの話題で持ち切りかな……)
それも仕方のないことだろう。
とはいえ、間宮さんも三木さんも、とんでもないひとに恋をしてしまったものだ。
(これは……先が思いやられそうな……)
ひとりでうんうん唸っていると、柾さんが「どうした?」と尋ねてきた。
「あ、いえ……」
「頬、まだ痛むか?」
伸ばしかけた手は、明らかに私の頬に触れようとしていた。
恥ずかしさのあまり、咄嗟に逃げる私に、柾さんはふっと面白そうに笑った。
「残念。撫でたかったのに」
かぁぁぁぁ。またしても瞬間湯沸かし器と化す私の頬。
「そ……そんな冗談を言ってる場合では……」
「いや、いいんだ。終わったんだから」
「え?」
「これで全部、綺麗に終わった。僕にとっては、ちょうどいいタイミングだった」
(ちょうどいいタイミング?)
なんのことだろうと不思議に思っていると、柾さんはふぅと溜息をついた。
「ただなぁ……。
一方通行の愛はときに人を傷付ける。そうなる前に自分でケリをつけなくてはいけないんだ」
噛み締めるように、柾さんは言う。いやというほど身に沁みているかのように。まるで心当たりがあるかのように。
「あいつにそう叱っておいた分際で、まさか自分が先に同じ間違いを犯すとはなぁ。バレたらマズいな……」
珍しく遠い目をしている柾さんを意外に思いながら、『あいつ』とは誰のことだろう? と首を傾げる私である。
「そうだ。千早さん、これ」
柾さんは、さっき自動販売機で買ってきたカップを私の方に滑らせた。
そして、今までのゴタゴタがまるで嘘のように、彼は優しく微笑んだ。
幸か不幸か、のどはすっかりカラカラだ。素直に受け取ると、貪るように液体を流し込んだ。
クリーム入りで甘いはずのコーヒーが、やけに苦く感じられた。ビターの効いた酸味が、私の舌に纏わりつく。
それでも飲み干してしまうのは何故だろう。
意味ありげな柾さんの視線を感じながら、私は最後の一杯をあおった。



2006.07.17-2006.11.04
2018.03.08(thu)



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